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- Date: Thu 12 01, 2012
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小説・琉球処分
小説・琉球処分は、沖縄の芥川賞受賞作家の大城立裕(おおしろたつひろ)さんの59年に書かれた作品です。

僕は沖縄出身でありながら、沖縄の歴史をほとんど知らないことを恥ずかしく思い、この本を読み始めたのですが、すごい面白かったので、紹介したいと思います。
1871年に全国で廃藩置県を実施した日本の明治政府は、1872年(明治5年)、琉球王国を強制廃止して琉球藩を設置し、は1879年(明治12年)4月4日に琉球処分を行い、日本の一県として廃藩置県を断行しました。
小説のおもな登場人物は、明治政府の大久保利通、伊藤博文、琉球処分官・松田道之。
最後の琉球王朝・尚泰王、琉球政府三仕官、その三仕官の子供で、これからの琉球の行く末を論議しあう、青年たちです。
僕は小説読み始めたのも三年ほど前からで、いまだに読み慣れてないのですが、そんな僕でもすいすい読めるくらい読みやすい本でした。
僕の中では、いろいろと教養になる場面も多く、笑える場面も結構あり、「なんて最高の本に出会えたんだ!!」と心震える程のものでした。
面白いシーンを少しあげると、明治政府と琉球政府、文化や思考が違いすぎて話がかみ合わないと言う場面が多かったところです。
日本は琉球領有の正当化のため、台湾原住民による琉球人殺害(宮古島島民遭難事件)の報復として1874年(明治7年)に台湾出兵を行ないました。その時、明治政府の大久保利通が琉球三仕官に対し、「今度の台湾問題というものは、琉球が日本である以上当然のこととはいえ、政府がこれに払った苦慮というものは大変なものだ。このことにたいして、琉球藩では、どう考えているかね。」といい、これにたいし琉球政府は、「その件につきましては、相談してご返事申し上げます。」と解しがたい答えがかえってきて、大久保が「何を相談する?」というと「藩の意向でございます」と答え、「政府の処分方法について、その得失厚簿について、君ら自身の意見を聞こうじゃないか」というと、「それはもうお手厚いご処分で、藩王はじめ感謝申し上げております」と答えた。
「台湾問題の始末をどう考えるか」といえば、普通の常識では「感謝してます」と来るべきだが、「相談してみます」といい、「君ら自身の意向は?」と追及すれば、「感謝します」という。
こちらを馬鹿にしてるのかと思えば、目をショボショボさせはなはだ礼儀正しい風情なのである。
こんな風におかしなやり取りが結構あって、それが面白いです。
読み終えたあとで、この本が59年に書かれたものだと知り驚きました。
あと、舞台は首里城中心の那覇がおもな舞台なので、沖縄の人は知ってる場所がよく出てくるので、おすすめです。
興味のある人は、ぜひ読んでみてください!

僕は沖縄出身でありながら、沖縄の歴史をほとんど知らないことを恥ずかしく思い、この本を読み始めたのですが、すごい面白かったので、紹介したいと思います。
1871年に全国で廃藩置県を実施した日本の明治政府は、1872年(明治5年)、琉球王国を強制廃止して琉球藩を設置し、は1879年(明治12年)4月4日に琉球処分を行い、日本の一県として廃藩置県を断行しました。
小説のおもな登場人物は、明治政府の大久保利通、伊藤博文、琉球処分官・松田道之。
最後の琉球王朝・尚泰王、琉球政府三仕官、その三仕官の子供で、これからの琉球の行く末を論議しあう、青年たちです。
僕は小説読み始めたのも三年ほど前からで、いまだに読み慣れてないのですが、そんな僕でもすいすい読めるくらい読みやすい本でした。
僕の中では、いろいろと教養になる場面も多く、笑える場面も結構あり、「なんて最高の本に出会えたんだ!!」と心震える程のものでした。
面白いシーンを少しあげると、明治政府と琉球政府、文化や思考が違いすぎて話がかみ合わないと言う場面が多かったところです。
日本は琉球領有の正当化のため、台湾原住民による琉球人殺害(宮古島島民遭難事件)の報復として1874年(明治7年)に台湾出兵を行ないました。その時、明治政府の大久保利通が琉球三仕官に対し、「今度の台湾問題というものは、琉球が日本である以上当然のこととはいえ、政府がこれに払った苦慮というものは大変なものだ。このことにたいして、琉球藩では、どう考えているかね。」といい、これにたいし琉球政府は、「その件につきましては、相談してご返事申し上げます。」と解しがたい答えがかえってきて、大久保が「何を相談する?」というと「藩の意向でございます」と答え、「政府の処分方法について、その得失厚簿について、君ら自身の意見を聞こうじゃないか」というと、「それはもうお手厚いご処分で、藩王はじめ感謝申し上げております」と答えた。
「台湾問題の始末をどう考えるか」といえば、普通の常識では「感謝してます」と来るべきだが、「相談してみます」といい、「君ら自身の意向は?」と追及すれば、「感謝します」という。
こちらを馬鹿にしてるのかと思えば、目をショボショボさせはなはだ礼儀正しい風情なのである。
こんな風におかしなやり取りが結構あって、それが面白いです。
読み終えたあとで、この本が59年に書かれたものだと知り驚きました。
あと、舞台は首里城中心の那覇がおもな舞台なので、沖縄の人は知ってる場所がよく出てくるので、おすすめです。
興味のある人は、ぜひ読んでみてください!
- Date: Mon 05 12, 2011
- Category: 歴史
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中村半次郎は男前
現在、司馬遼太郎さんの「翔ぶが如く」を読んでる最中なのですが、その中の登場人物で人切り半次郎と呼ばれ、新撰組からも恐れられていたと言われる剣豪、中村半次郎 のちの名は桐野利秋に惹かれました。
幕末、日本の中でも薩摩藩は一番、侍気質が高いと言われていたのですが、その中でも中村半次郎は同じ薩摩藩からも一目置かれ、「戦国を駆け抜けた武将達は桐野のような男であろう」と言われたほどだそうです。
いったいこの男はどういう風貌なのだろうと画像検索したところ見つけた写真

僕は見た瞬間、「なんと男前で勇ましい風貌なのだろう」と思いますます惹かれました。
まるで中山きんに君のようなたくましい日本男児らしく、それでいて優しそうな目。
僕的に風貌で言えば歴史人物で一番好きなのですが、皆さんはいかがでしょうか?
幕末、日本の中でも薩摩藩は一番、侍気質が高いと言われていたのですが、その中でも中村半次郎は同じ薩摩藩からも一目置かれ、「戦国を駆け抜けた武将達は桐野のような男であろう」と言われたほどだそうです。
いったいこの男はどういう風貌なのだろうと画像検索したところ見つけた写真

僕は見た瞬間、「なんと男前で勇ましい風貌なのだろう」と思いますます惹かれました。
まるで中山きんに君のようなたくましい日本男児らしく、それでいて優しそうな目。
僕的に風貌で言えば歴史人物で一番好きなのですが、皆さんはいかがでしょうか?
- Date: Wed 30 11, 2011
- Category: 歴史
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西郷隆盛× 西郷隆永○
誰もがご存知、幕末・明治の有名人物、西郷隆盛。実は、この隆盛という名前は父の名前で、当人の本名は隆永なんです。
明治になり、新政府へ名前を届け出るとき、同士である吉井友実が、代理で届け出たのですが、間違えて、父の方の隆盛の名前を届け出たそうです。
当人は、間違えて登録された名前を見ても、「そうか、わしは隆盛でごわすか。」といい訂正しなかったそうです。
弟の従道の方も間違えで、実は隆道なのですが、本人が名前を届け出て漢字の読み方を伝えるとき、「リュウドウじゃ。」と言ったのですが、薩摩なまりで「ジュウドウじゃ。」と聞こえたらしく、従道という名前が登録されたのですが、兄と同じく訂正しなかったそうです。
「なんで訂正しないの?」て感じですけど・・・。
あと西郷さんは生涯、自身を吉之助といい、廻りからもそう呼ばれてたので、こんにちの教科書や歴史本などは「吉之助」と伝えるべきでは?と僕的には思うんですが。
明治になり、新政府へ名前を届け出るとき、同士である吉井友実が、代理で届け出たのですが、間違えて、父の方の隆盛の名前を届け出たそうです。
当人は、間違えて登録された名前を見ても、「そうか、わしは隆盛でごわすか。」といい訂正しなかったそうです。
弟の従道の方も間違えで、実は隆道なのですが、本人が名前を届け出て漢字の読み方を伝えるとき、「リュウドウじゃ。」と言ったのですが、薩摩なまりで「ジュウドウじゃ。」と聞こえたらしく、従道という名前が登録されたのですが、兄と同じく訂正しなかったそうです。
「なんで訂正しないの?」て感じですけど・・・。
あと西郷さんは生涯、自身を吉之助といい、廻りからもそう呼ばれてたので、こんにちの教科書や歴史本などは「吉之助」と伝えるべきでは?と僕的には思うんですが。
- Date: Thu 24 11, 2011
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名君・島津斉彬(しまづなりあきら)

ご存知の方も多いと思いますが、薩摩藩の第11代藩主です。
最近まで、この人物について、薩摩藩の藩主であることしか知らなかったのですが、司馬遼太郎さんの「翔ぶが如く」を読んで、この島津斉彬、とんでもない名君だということを知、感銘を受け、語らずにはいられなくなったので語りたいと思います。
江戸時代、「島津に暗君なし」と世間から言われるほど、島津の歴代当主は、どの藩主も容貌が爽快で、どの人物も英気を含み、さらには数代ごとに天才的な人物がでたらしく、その中でも斉彬の才気は奇跡てきなものだといわれたそうです。
彼が藩主であった期間は、わずか7年なのですが、その間にこの一人の人物がやった治績が驚くほど多い!!ここに紹介していきます。
彼は、藩主になるや富国強兵に努め、薩摩を西欧並みの産業国家にしようとして、水力発電所を造り、鹿児島城の本丸と二の丸の間に有線電信機を設ける。
鹿児島防衛用の沈置水雷を造り、鉱山用の送電地雷を製造、実用に供し、オランダの技術書によって、西洋式の火薬を製造、貿易用の輸出品として、ガラスを製造、板ガラス、紅ガラス、切り子ガラスを作ったが、なかでも紅ガラスはドイツ製品と肩を並べるほど、評判が良かったという。
大規模な反射炉や工作機械工場をつくり、これらによって、大量の大砲や小銃を製造。
嘉永4年(1854年)にはジョンマン次郎を保護し、造船技術を学ばせ、安政元年(1857年)、洋式帆船「いろは丸」を完成させ、西洋式軍艦「昇平丸」を建造し徳川幕府に献上している。黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」として結実させた。
安政5年に、大老井伊直助の独裁高圧主義に反対し、言論をもって、これを阻止できないとみるや、薩摩の精兵三千を率いて、京都に上洛し、天子を擁して、幕府と対決しようとしたが、叶わずにこの年病死するのである。
わずか7年の藩主期間でこれだけの治績はすごいですよね!!
彼は、当時流行の攘夷、鎖国論者ではなく、「鎖国を上策と心得たり、日本国を唯一の世界と思うのは、間違いである。外国との交際や貿易は大いにすべきで、その交際の精神は平和親善であらねばならない。ただ、そのためには国防を盛んにし、外国からの侮辱に対しては、断固たる態度をとらねば、独立をうしなう。」と、絶えず重臣たちに諭していたという。
当時一般日本人の度肝を抜いた、ペリーが乗ってきた黒船。斉彬はこれに驚くよりもこれを作ろうとし、ペリー来航後わずか三年で製造に成功した。
ペリーが徳川家に土産としてライフル銃二挺をもってきたとき、斉彬はそれを拝見したいと乞い、1挺を借り、一晩でそれを分解して図面にとり、幕府に返し、帰国後「これを三千挺作れ」と命じた。
この他の藩主にはない、実際的な考え方や、先見の目、具体性、行動力はほんとにすばらしい!!
見習っていきたいですね。
まだまだ書きたかったのですが、すごく長くなりそうなので今回はこのへんで。
- Date: Wed 23 11, 2011
- Category: 未分類
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はじめまして
ブログ初心者です。
おもに歴史について学んだことや、感じたこと。本を読んでの感想など載せて行こうと思ってます。
歴史に感心を持って一年くらいで、まだまだ知識が浅いのですが、
歴史を学んでは、人に話したい。
が、話せる相手がいない。
ならブログで語ろうってことで始めることにしました。
いまは、日本史をおもに学んでるのですが、いずれは世界史にも明るくなりたいと思ってます。
よろしくおねがいします。
おもに歴史について学んだことや、感じたこと。本を読んでの感想など載せて行こうと思ってます。
歴史に感心を持って一年くらいで、まだまだ知識が浅いのですが、
歴史を学んでは、人に話したい。
が、話せる相手がいない。
ならブログで語ろうってことで始めることにしました。
いまは、日本史をおもに学んでるのですが、いずれは世界史にも明るくなりたいと思ってます。
よろしくおねがいします。











